151キロの速球を投げる右腕投手としてプロ複数球団が注目する。カーブ、スライダー、カットボール、チェンジアップなどひと通りの球種を投げ、ボールの強さもある。 外野手として2年時の甲子園でセンター ...<続く>
大きな体格で長打を武器とするヒッター 守備には少し不安もあるが、バッティングで補える 好打者である
原田甲斐は、原田家の当主として伊達藩家臣団に組み込まれているが、権勢を求めず、奥羽山脈に抱かれた居館において「朝餉の会」という気の合う仲間との懇談を楽しみとした、穏やかな日々を過ごしていた。しかし彼のいる17世紀半ばでは、まだ藩政の絶対主義が確立しておらず、藩祖の血脈という権威を背景とした有力者たちが、地方知行の経済力を基盤として権力闘争を繰り広げていた。この闘いが原田と彼の友人、家臣たちの運命を変えていくことになる。 仙台藩の3代藩主伊達綱宗は、江戸の吉原での放蕩三昧を理由に、若くして幕府より隠居を申し渡された。綱宗には非難されるほどの遊興の覚えはなかったが、仙台藩主の座は嫡男である2歳の亀千代(後の伊達綱村)に移され、綱宗の叔父にあたる伊達兵部が後見役として実権を掌握した。 世間の人々は、この一件の裏に大名家の取り潰しや弱体化を画策する幕府の思惑が働いていると噂した。老中の酒井雅楽頭(酒井忠清)と兵部の間に、いずれは仙台藩の半分を兵部に与えるという密約が交わされているとする風聞は、藩内に渦巻き、誰もが疑心暗鬼に囚われていく。 兵部は綱宗の過度の遊興がでっち上げであることを隠すために、吉原に同行した側近の畑与右衛門を夫人もろとも暗殺した。かろうじて逃げ延びた娘の宇乃は、近所に住む甲斐に救われた。綱宗が最も信頼していた甲斐は、綱宗の隠居後は後見役の兵部の勢力に取り込まれ、国老の地位を与えられた。兵部の一派のやり口に反発する藩内の人々は、甲斐に冷たい視線を浴びせ、友人達も彼の元から去っていった。それでも一人、甲斐は淡々と職務をこなしている。そんな甲斐の心中を覗こうと雅楽頭は様々に仕掛けてみせるが、この絶対的権力者を前にしても、甲斐には畏れも反発も何一つ波立つ様子はなかった。 舘において保護をしている宇乃を前にして、甲斐は庭にある樅の巨木の孤高を語った。「私はこの木が好きだ。この木は何も語らない。だから私はこの木が好きだ」。宇乃は甲斐が、樅の木に己の生き様を重ね合わせているように思えた。 藩内の権力を欲しいままにする兵部の一派は、他の伊達氏一門と激しく対立し、ついに幕府への上訴という事態に発展した。これは仙台藩にとって、幕府に取り潰しの名目を与えかねない危険な行為であった。兵部は万一の場合の安全弁として、かつて雅楽頭から送られた密約に関する自筆の書状を甲斐に託し、評定の場へと差し向けた。 史実によると、江戸の酒井雅楽頭邸で行われた評定の席で劣勢に陥った甲斐は、上訴の主である伊達安芸(伊達宗重)らを斬り殺し、自身も斬られて死亡したことになっている。これが世に言う「伊達騒動」である。しかし、伊達家の人々の殺害を命じたのは、密約の書状が世に出ることを恐れた雅楽頭であった。あえて全ての罪を被り、絶命する甲斐。これまで人々の蔑みの目にも、何も語らず耐えて来た甲斐の望みはただ一つ、たとえ己が悪人の汚名を着ようとも、仙台藩を無事に存続させることだったのだ。
日ハム